『回復という毒』を読みました 私たちの支援は安全なのか?毒なのか?
2026/10/29
『回復という毒』を読みました 私たちの支援は安全なのか?毒なのか?
サブタイトル
手法の先にある、こころでつながるケア――『「回復」という毒』を読んで
前回のミントでは、ナッジ理論について書きました。人の選択や行動を、そっと後押しする。その考え方に触れながら、今回は、その働きかけを受ける人の気持ちに、私たちはどれほど目を向けているだろう、と考えました。
どれほど優れた手法であっても、相手が何を感じ、何を大切にしているのかを置き去りにしたままでは、本人の望む支援にはつながらないかもしれません。
そんな問いを深く考えるきっかけになったのが、風間暁さんの『「回復」という毒――支援に埋め込まれた構造的暴力』でした。
本書には、著者が壮絶な虐待を受けて育ち、自傷や自己破壊的な行動を繰り返しながら、自分の人生を取り戻していく歩みが描かれています。その中で重く心に残ったのは、助けを求めて出会った医療や福祉の支援によって、さらに傷ついていく経験でした。
診断、アセスメント、支援、ケア。私たちが日常的に使う言葉のもとで、自分を評価され、判断され、自分の実感とは異なる説明によって切り分けられていく。読みながら、理解しようとして使っているはずの言葉が、相手にとっては、自分を切り裂く言葉にもなり得るのだと感じました。
私たちは、患者さんの言動を見聞きすると、その背景や意味を考えます。アセスメントは、必要なケアを考えるうえで大切なものです。しかし、専門的な言葉で説明できたとき、それだけで「この人を理解した」と思ってしまう危うさがあります。
たとえば、ある行動を「拒否」と捉えたとき、その人が何から身を守ろうとしているのかは、まだわかりません。「依存的」と評価したとき、その人がどれほどの孤独や不安を抱えているのかを、十分に聴けているでしょうか。言葉で整理すると見えやすくなることがある一方で、その言葉からこぼれ落ちる経験もあります。
そして、一度ついた評価が、その後の関わりを方向づけることもあります。本人が違うと伝えても、その声まで既存の評価の中で解釈されてしまったら、自分のことを語る余地がなくなってしまいます。
これは、とても苦しいことだと思います。自分の人生について話しているのに、自分の言葉よりも、支援者の説明のほうが重く扱われる。その関係の中で、安心してこころを開くことができるでしょうか。
ブログではこれまでも対話の大切さについて書いてきました。本書を通してあらためて感じたのは、対話には、支援する側の理解が変わる余地が必要だということです。
質問をして、必要な情報を集める。状態を把握し、支援方針を決める。それも仕事の一部ですが、聴き取った情報を用意された枠に収めるだけでは、相手の世界には近づけません。
「私はこう受け取ったけれど、あなたの感じ方とは違うかもしれない」
そう考えながら、相手の言葉を待ち、確かめる。自分が立てた見立てを、本人の話によって修正する。すぐには理解できない経験にも耳を傾け続ける。その積み重ねの中に、こころでつながるための土台があるのだと思います。
こころでつながるというのは、相手の気持ちがすべてわかるということではありません。わからないことを認めながらも、理解したいという姿勢を手放さないこと。本人の言葉が、自分の考えや関わり方を変える力を持っていると受け止めることなのだと思います。
その姿勢が薄れてしまうと、ケアは作業になっていきます。
決められた時間に声をかける。状態を確認する。服薬を促す。記録を書く。一つひとつは必要な行為でも、目の前の人がどう感じているかを確かめることなく進めれば、業務を終えることが中心になってしまいます。支援者にとっては滞りなく終わったケアが、本人には「今日も気持ちを聴いてもらえなかった」という経験として残るかもしれません。
ただ、私はこの問題を、支援者個人の思いやりや努力の不足だけで説明することはできないと考えています。精神科医療全体の構造に目を向ける必要があります。
限られた人員と時間の中で、多くの業務をこなさなければならない。対話に時間をかけることよりも、予定された業務を終えることが優先されやすい。記録では、本人の揺れ動く思いや複雑な背景より、短く共有しやすい評価が求められる。そうした環境では、相手を理解したいと思っていても、立ち止まる余裕を失いやすくなります。
そして、私たちはまず、ケアの中に「権威勾配」があることを、一度認める必要があると思います。支援する側と受ける側には、知識や情報、決定できることに差があります。こちらが対等に接しているつもりでも、患者さんは「違うと言いにくい」「断ったら、その後の対応に影響するかもしれない」と感じているかもしれません。
そのため、同意が得られたことや、異議がなかったことだけで、本人が納得しているとは言い切れません。私たちの言葉には、相手の選択や発言を左右する力がある。その自覚を持つことが、対話の出発点になるのだと思います。
誰の言葉が記録に残り、誰の判断で支援の方向が決まるのか。本人が違和感を伝えたとき、その声によって方針を見直せるのか。権威勾配があることを前提に、安心して異議を伝えられる関係と仕組みをつくる必要があります。これは個人の心がけとともに、精神科医療全体で取り組むべき課題だと考えています。
前回取り上げたナッジについても、同じ問いを持ち続けたいと思いました。私たちは、どこへ向かって相手を後押ししようとしているのか。その方向を、本人と確かめ合えているのか。本人がためらったり、別の道を選んだりしたときに、その意味を聴けるだろうか、と。
私たち自身が、相手の声によって立ち止まり、考え直せること。その柔軟さがあってこそ、ケアはその人のために役立つのだと思います。
『「回復」という毒』は、自分の足元を問い直す一冊でした。ケアが相手を更に傷つける武器になることがあり、使い方により諸刃の剣である。またはケアと称した暴力になっている可能性ーーーー様々考えさせられる一冊です。
目の前の人を、専門的な言葉だけでわかったつもりにならない。その人が語る経験を聴き、自分の理解を問い直す。そして、そのような関わりを続けられる医療の仕組みを考える。
手法を学ぶこととともに、こころでつながろうとする姿勢を育てていく。その大切さを、伝えていきたいです。
では、またです!

