「医療」が「健康」を奪う?!根源的な問い
2026/02/25
医療が健康を奪うとしたら?ここにきて出会った新たな視点
~では、施設とは何なのか~
先日、イタリアの精神科病院解体の歴史に関わってこられたロベルト・メッティーナ氏の講演を聴く機会がありました。
その中で語られたのは、単なる制度改革の話ではありませんでした。
それは、「人が人として生きるとはどういうことか」という、根源的な問いでした。
イタリアでは、精神科病院という巨大な施設が解体され、地域へと移行していく歴史がありました。その背景には、精神科医である フランコ・バザーリア の思想があります。
イタリアでは精神科病院という場所が「治療の場」である前に、「隔離の場」になってしまっていることを問いが投げられ、改革されていったのでした。これは紐解いていくとそもそも「施設」という構造が社会、人の繋がりをある枠組みで分断する装置であり、仕組みであるということが根底にあり、ロベルト・メッティーナ氏の講演の後に語られた松嶋先生の言葉を借りると施設とは「人間と言う集団を隔離して対処する装置」であるということ。そのひとつとして「精神科病院」と言う施設があり、人が隔離され、人権が奪われていた。
これは決して他人事ではないという意味においていうと、そもそも資本主義のなかにある絶対的な価値観として、「生産性の重視」「合理性の重視」があり、そこから漏れ出たものは無価値であり権利が奪われてもよいという考えに基づいて社会が構成されていて、生産性や合理性が欠如した存在として、「女性」「子供」が無価値なものとして権利を奪われていた。(今もある意味世界的にみるとそうなっていると思います。)と言うことも併せて語られました。(個人的にそう理解しました)
簡単に言えば「働けないものは価値がない」とされていた、そのような社会からの脱却、成長のひとつが精神科病院の解体だったのかと衝撃を受けました。
精神科病院という施設から人々を地域へ戻すこと。
それは単なる「退院支援」ではなく、「脱施設化」という思想の実践で、当然ではありますが単に建物をなくすことではない。
それは、「人を管理の対象として扱う仕組み」から、「人を主体として尊重する社会」への転換なのだと感じました。
講演の中で印象的だったのは、精神医療から精神保健への転換という視点です。
医療は、病気を見つけ、診断し、治療する枠組みです。
そこでは、専門家が判断し、患者が従う構図が生まれやすい。
しかし保健とは、健康をどう支えるかという視点です。
そこでは、本人の生活、関係性、役割、居場所が中心になります。
医療から保健へ。
病気から健康へ。
この転換は、言葉の違いではなく、人を見る視点そのものの転換です。
そして私は、ひとつの疑問から逃れられなくなりました。
もし、医療という形そのものが、人が健康に生きる権利を奪っているとしたら?
もちろん医療は、多くの命を救ってきました。
感染症や外科治療、急性期医療など、医学の進歩は奇跡のような成果を生み出してきました。
しかし、精神医療の領域ではどうでしょうか。
診断名がつくことで、その人は「〇〇障がい者」と呼ばれるようになります。
症状が強いと判断されれば、入院が選択されることもあります。
「安全」「人命を守る」という大義名分のもとに、行動が制限されることもあります。
これまで何度か向精神薬について書いてきましたが、投薬は「原因がはっきりとわかっていない領域にあてずっぽに爆弾を投げ入れる。」そんな行為なのでは?と思うことがあり、そこに対して自分の領域(自分の心と身体を守るのは自分自身であるという考えを書いてきたつもりです)への責任を自ら負い、そして、その責任を果たせるような情報が正しく開示、提供される社会の仕組みが必要だと考えています。
医療行為、診断、支援、ケア、その一つ一つは、善意から生まれたものであると思います。
けれどその積み重ねや構造、制度自体が、「自分で選ぶ力」や「社会の中で生きる権利」を奪うものになっているのかもしれません。
精神科病院は、本来、苦しむ人を守る場所であったはずです。
けれど歴史を振り返れば、そこが長期収容の場となり、社会から見えない場所になっていた時代もありました。
ロベルト氏は、地域の中で人が生きることの可能性を語っていました。
「危機」は排除するものではなく、支え合いの中で乗り越えていくものだと。
地域で暮らすということは、完全に安定した状態であることを意味しません。
むしろ、揺れながら、支えられながら、支えながら、生き続けることです。
健康とは、症状がゼロの状態ではない。
健康とは、自由があり、居場所があり、役割があり、関係性があること。
もしそうだとするならば、私たちは何を支えているのでしょうか。何をもってケアしていると言っているのだろうと思いました。
私は精神科医療の枠組みで活動する訪問看護師です。日々、症状の観察や服薬管理、再発予防に関わっています。けれど今回の講演を通して、強く感じました。
私たちは、「精神科訪問看護とは何か」を定義し直す必要があるのではないか。
今の枠組みは、医療モデルに強く影響されています。診断、症状、リスク管理。それは大切です。でも、それだけでは足りない。
もし健康が「その人がその人として生きること」だとするならば、
私たちの役割は、症状を減らすことだけではなく、
その人が地域の中で生きる権利を守ることを一緒に考えていく存在であるべきではないかと思いました。
脱施設化は、建物の問題ではありません。
それは、私たちの頭の中にある「施設的なまなざし」を手放すことなのだと思います。
「この人は危ないから」
「この人は判断できないから」
「この人は支援がないと無理だから」
そうやって、知らず知らずのうちに、誰かの人生を囲い込んでいないか。
講演を聴きながら、自分自身に問い続けていました。
医療は、人を守るためのもの。けれどそれが、自由を奪う構造を持ち始めたとき、私たちは立ち止まらなければならない。
先日の講演を自分なりに消化しながらまとめていきたいと思っています。
では、またです!

