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揺れながら生きることが許される社会へ|【明石市】精神科特化訪問看護ミント

揺れながら生きることが許される社会へ|【明石市】精神科特化訪問看護ミント

揺れながら生きることが許される社会へ|【明石市】精神科特化訪問看護ミント

2026/01/12

揺れながら生きることが許される社会へ

~「輸入概念」の先にあるもの~

 

なぜ、こんなにも「生きづらさ」を感じるのか

――失われつつある日本的なつながりと、その中で語られるリカバリー

みなさんこんにちはミントです

精神科の現場にいると、「生きづらさ」という言葉を聞かない日はありません。(ちょっと大げさかな?いや、そうでもない)
そして、それは診断名の有無に関わらず、多くの人が日常的に抱えている感覚でもあります。

・頑張っているはずなのに、なぜか報われない
・SNSやニュースを見るたびに、自分だけ取り残されている気がする
・「ちゃんとしなきゃ」と思う一方で、もうこれ以上頑張れない

こうした声は、今や特別なものではなく、「社会生活をする人」のあいだに静かに広がっています。

その背景には、ここ数十年のあいだに起きた、日本社会のあり方の大きな変化があります。

かつての日本には、

ご近所さんとの曖昧で緩やかなつながり

古いものや不完全なものを大切にする感性

「目立つ役割」よりも、「小さな役割」を丁寧に果たすことを良しとする価値観

が、当たり前のように存在していました。

 

名前もよく知らないけれど、いつも挨拶を交わす人がいる。
特別な用事はなくても、商店街に行けば誰かと軽く会話が生まれる。
完璧ではないけれど、自分ができることを少しずつ重ねていくことで、「ここにいていい」という感覚が支えられていた――そんな風景です。

 

しかし、高度経済成長、都市化、核家族化、そして情報化が進むなかで、私たちは少しずつ、こうした「曖昧で、ゆるくて、でも確かに存在するつながり」を手放してきました。その感覚を共有できる人さえ少なくなっている。

 

でも、立ち止まって周りを静かに見渡してみてください

仕事や学校での評価

目に見える成果

分かりやすい実績や肩書き

が重視される一方で、

ただそこにいるだけの人

目立たないけれど、場を支えている人

うまく言葉にできないまま、なんとか日々を生きている人

の存在は、見えにくくなってしまいました。

 

その結果、私たちは知らず知らずのうちに、
「自分の価値は、自分がどれだけうまくやれるかで決まる」
というメッセージを受け取り続けています。

病気があるなら、それを乗り越えて「ちゃんと」働かなければならない

しんどいなら、自分の努力や自己管理でなんとかしなければならない

人に迷惑をかけないように、「できる自分」でい続けなければならない

こうしたプレッシャーは、精神科の領域に限らず、日本に暮らす多くの人たちのこころを、静かに締め付けています。

 

一方で、昔からあったはずの、

「今日はしんどいから、できるところまででいい」という長期的な視野から見た「今日」の過ごし方。

「とりあえず、ここに座ってお茶でも飲んでいき」といった意味がない時間かもしれないけど、実はとても必要な休息の時間。

「役に立つかどうかは分からないけれど、ともかく一緒にいる」形にはみえないけど、必要な繋がり感。

といったいわば調和と見守りの感覚は、少しずつ弱まってしまったように感じています。

 

私たちは今、
「自分で自分をなんとかしなければならない」という強い自己責任感と、
「一人ではとても抱えきれない」という本音とのあいだで引き裂かれそうになりながら、日々を生きているのかもしれません。

 

この状況の中で、精神医療や福祉の領域には、さまざまな概念や支援モデルが海外から入ってきました。
「SST」「認知行動療法」「〇〇式家族支援」「リカバリー」や「オープンダイアローグ」etc・・・・・

これらの概念は、当事者の権利や尊厳を回復するうえで、大変重要な役割を果たしてきました。
同時に、今の日本社会の「生きづらさ」を踏まえずに、そのままの形で当てはめてしまうと、どこかで現場の実感とズレが生じるという感覚もあります。

 

たとえば「自己決定」「主体性」「自分の人生の舵を自分で取る」といった言葉は、ときに、今すでに頑張り切って疲弊している人たちに、「さらに自分で何とかしなければならない」という負荷として響いてしまうこともあります。

本来の意味は届きにくい時があるかもしれません。

 

だからこそ私たちは、
ただ「輸入された枠組みを使うか/使わないか」という二択ではなく、

そもそも、今の日本社会で、私たちはなぜこんなにも生きづらさを感じているのか
かつて大切にしてきたつながりや価値観は、どのように薄れていったのか
その中で「リカバリー」という概念をどう位置づけ直せるのか

という問いを、一度立ち止まって見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

 

次回はこれらの考えをもとに

「日本に生きる私たちの生活感覚や文化的背景を踏まえて、もう一度リカバリーこころをベースに翻訳し、考えてみる」ことを試みたいと思います。

その試みを、ここでは仮に「日本的リカバリー」と呼びながら、
訪問看護の現場で出会う具体的な生活の手触りとともに考えていきます。

 

では、またです!

 

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