最初と最後ちゃんとしてる?|【明石市】精神科特化訪問看護ミント
2025/10/15
最初と最後ちゃんとしてる?
~曖昧な始まりとゴール~
◎はじまりが曖昧であるという前提から、私たちは出発するーーーー
精神科訪問看護は、医師の指示書に基づき、利用者本人および関係者との合意のもとに開始される医療的支援です。けれど、現場の実感として、「訪問が始まる」とは実に曖昧な出発であることが多い。
形式上は契約が結ばれ、予定が組まれ、制度上も整っている。
でも、その場に立っている私たち自身が、訪問が始まったと感じられるのはもっと後だったりします。
訪問看護開始には様々な理由があり、いつも本人の意志と合致しているわけではありません。
◆医師に勧められて「断りきれずに」契約した
◆ご家族の強い希望で申し込まれたが、本人は静かに抵抗している
◆あるいは、支援の必要性はあるが、それを本人が認識できる言葉をまだ持てていない
このように、“はじまり”がすでに「ねじれて」いることもある。
そのねじれは、契約書には残りませんが、現場ではその“違和感”を肌で受け取ります。
全く持って余裕がない状態から始まることももちろんあって、
そうなるともう、かなりマイナスからの始まりであり、
これもまた、曖昧さとは違う難しさのあるはじまりだったりします。
だからこそ、問われるのは
「現在地から始められているか?」という視点です。
訪問が制度的に始まったとしても、関係性はまだ始まっていないかもしれない。
本人が「これが自分のためだ」と納得していないなら、その訪問はまだ“仮のもの”かもしれない。
何のために?が共通認識できていないと、その時間は形骸化した繰り返しかもしれません。
まずは不安なく時間を共にできる。そこまでにかなりの時間を要するケースもあります。
そのようなとき私たちに必要なのは、「何ができるか」を急ぐことではなく、
「今、あなたはどこにいますか?」という問いに寄り添うことかもしれません。
この訪問が、ご自身にとってどういう位置づけなのか
支援を受けるということが、自分にとってどういう意味を持つのか
本当は何に戸惑っていて、何がまだ腑に落ちていないのか
準備もできてないのに始まってしまったのか
こうした“現在地”の確認がないと、私たちの訪問はただの「立ち寄り」になってしまう。
私は一緒に今ご自身が人生のどこにいるのかを話せたら、
とてもいいスタートが切れると思っていて、そうなると本当の意味で
生活を組み立てるサポートが始められるのではないかなと思います。
信頼や関係性が深まっていくのはもっともっと後になってから。
だから、プロセスとしての始まり、スタート時点はまずは現在地を知ることが大切だと思うのです。
◎ゴールは私たちが設定するものではないーーーーーー
支援が始まると、つい私たちは「どこを目指すか」を設定したくなる。
病状の安定、生活の維持、危機回避、就労、社会参加……。
確かにそれらは“目標”として重要なことです。
けれど本当の意味での“ゴール”は、その人自身が選び、意味づけるべきものです。
そして多くの場合、それは「訪問が終われること」ではありません。
むしろ、「訪問が続いている状態であっても、自分の輪郭が少しずつ立ち上がってくること」
「日常が少しずつ“自分の手に戻ってくる感覚”を持てること」
自分の生活の舵取りができるようになることがリカバリーであり、
次にウェルビーイングの時期がやってきます。
このように、「現在地の確認」から出発し、
「本人のゴール」を共に見つめていくという流れが、
たとえ曖昧な出会いの中であっても、
関係を少しずつ“本物”へと育てていく鍵になるのだと思います。
「終わり」ではなく、「ゴールを共有する」という視点で立ち会う
訪問看護という関係には、制度上、物理的、あるいは生活上の変化によって、
いつか「終了」と呼ばれる地点がやってきます。
けれど精神科の現場において、その“終わり”は一つの完結や卒業とは限りません。
むしろ、私たちが現場で感じるのは、ゴールにたどり着いたと思っても、
そこは同時に通過点であることの方が多いという事実です。
渦を描きながら進む――「同じ地点に戻ってくる」ように見えても
前回の「それ」とは違っていて、成長や変化があり、時には後戻りしているように見える。
精神症状には波があります。
本人が自覚していてもいなくても、「あの時と似た状況」「前にもあったパターン」が
程度を変えて繰り返されることがあります。
でも、それは単なる“後戻り”ではなくて“渦”としての回復プロセスと捉えます。
具体的には
以前よりも早く助けを求められた
生活リズムの再構築にかかる時間が少し短くなった
困りごとを自分の言葉で説明できるようになっていたなどなど
同じように見える地点でも、その人は確かに別の角度からそこに立っている。
だからこそ、私たちは「一回限りのゴール」ではなく、
“今この時点でのゴール”を共に見出す視点を持つ必要があります。
「看護の終了=ゴール」ではない
訪問が終了することは、必ずしも本人にとってのゴールではないし、
看護師側にとっての“納得できる終わり方”とも限りません。
ですが、心が最も揺れる「終わり方」があることを、私たちはよく知っています。
⬛️ 一方的な終了と、転ステーション
何の前触れもなく、「今後は他のステーションにお願いします」と伝えられる。
理由は語られない。支援が突然切り替えられ、置いてけぼりになるような感覚が残る。
それは、自分たちの関わりが意味をなしていなかったのでは、という無力感につながることもある。
いくら振り返りをしてもぬぐい切れない心の後味が残るパターン。答えのない問いがまた一つ増えてしまう。
どんなに頑張ってもやっぱりこういう時があります。
⬛️ 自死という別れ
長く関わった方が、自ら命を絶つ――
それがどれだけ支援者の心を削り、問いを残すか。
「もっと何かできたのでは」
「最後のあの表情に、何かサインはなかったか」
私たちは“答えの出ない問い”を延々と自分の中で反芻してしまう。
これも本当の意味では終わることがありません。
⬛️ トラブルによる終結
暴力、悪質なキャンセル、怒号、通報――。
時に支援関係は、非常に荒れた形で閉じることがあります。
そこでは、「正しく支援すること」より、「自分を守ること」が優先される。
でも、たとえどんな理由があったとしても、ああいう形で終わってしまったことに、自責が残る。
そのような心の揺れを、本当に語れる場が看護師にはあまりにも少ないなと思います。
“納得できる終わり”ではなく、“語れるゴール”を
支援関係の「終わり方」が選べない時、
私たちは“語ること”でしか整理できないことがあります。
あの関係で自分は何を感じていたのか
どんなことに嬉しさや違和感を覚えていたのか
あの瞬間、誰かにどう言ってもらいたかったのか
こうして自分の中で、「あれはあの時のゴールだったのだ」と後から意味づけられることで、
やっとその関係を“納める”ことができるのです。
おわりに――
「終わり方」に正解はない。でも
支援のゴールは、本人の中でしか見つけられない。
そしてそのゴールは、時間とともに揺れ、移ろい、変化していく。
同じゴールを共有して、その達成と共に終了できる訪問は目指してはいるけどごくわずか。
看護の終了は、単なる終点ではなく、
「その時点で選び取られた関係の形」として受け止めるしかないことが多いなと思います。
だからこそ、訪問看護師にとって大切なのは、
“どんな終わり方を迎えても、自分の言葉で語れるようにする”こと。
それが、次の出会いを支える“足場”になるのではないでしょうか。
では、またです!


