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<title>ご利用者様の主体性を大切にしております | 明石市で暮らしを支える精神科特化 訪問看護ステーションミント</title>
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<description>経験豊富なスタッフによる訪問看護のサービスをご案内している施設として、特に地元明石市の方からご納得のお言葉をいただいております。生活の様々な場面でサポートを必要としているのは、ご利用者様だけではないと考え、ご家族様も含めて、安心できる質の高いサービスのため、スタッフ一同毎日の業務に真剣に取り組んでいます。 ご利用者様にご案内しているサービスの詳細について、お問い合わせいただいた際、ご丁寧にお応えしているほか、ブログでも迅速かつ丁寧に耳寄りな情報をお届けしております。</description>
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<title>６月がつらいあなたへ｜ストレスは悪者ではない</title>
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６月がつらいあなたへ｜ストレスは悪者ではない
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260605124335/</link>
<pubDate>Thu, 18 Jun 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
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<title>６月が辛いあなたへ｜精神科訪問看護ミント</title>
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６月が辛いあなたへ｜精神科訪問看護ミント
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260605122312/</link>
<pubDate>Fri, 05 Jun 2026 12:32:00 +0900</pubDate>
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<title>自分の「やりすぎ」に気づく方法｜訪問看護　ミント　明石市・神戸市西区・垂水区</title>
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明石市にある精神科特化訪問看護ステーションミント
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260506193830/</link>
<pubDate>Fri, 29 May 2026 19:00:00 +0900</pubDate>
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<title>落ち込むときにミントみたいな対処法！｜訪問看護　ミント　明石市・神戸市垂水区・西区</title>
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～気分が落ち込む日に試してほしい習慣～気持ちが落ち込む日に試してほしい「ミントみたいな習慣」「なんとなく気分が重い」
「やる気が出ない」
そんな日、ありませんか？特別な理由があるわけではないのに、気持ちが沈んでしまう日。
精神科訪問看護の現場でも、こうした声はとても多く聞かれます。そんなときに大切なのは、「無理に元気になろうとしないこと」です。
そしてもうひとつ、「少しだけ気持ちが軽くなる工夫を持っておくこと」です。今回は、落ち込んだ日に取り入れやすい“ミントみたいな習慣”をテーマに、日常で実践できる方法をご紹介します。［「ミントみたいな習慣」とは？］ここでいう“ミントみたいな習慣”とは、
強く変えようとするのではなく、少しだけ気分を軽くする行動のことです。ミントの香りや味のように、
・すっきりする
・少しリフレッシュできる
・重たい気分をほんの少し和らげるそんなイメージです。大きな変化を求めるのではなく、「ほんの少し楽になる」ことを目標にするのがポイント！①深呼吸で“今”に戻る気分が落ち込んでいるとき、頭の中では
過去の出来事や将来の不安がぐるぐると巡りがちです。そんなときに役立つのが、深呼吸です。やり方はシンプルです。
・ゆっくり息を吸う
・少し止める
・ゆっくり吐くこれを数回繰り返すだけでも、体の緊張が少しずつゆるみます。呼吸に意識を向けることで、「今ここ」に戻る感覚が生まれます。
考えすぎている状態から、少し距離を取ることができます。②短時間の外気浴でリズムを整える外に出ることが難しく感じる日もありますが、
ほんの数分でも外の空気に触れることは大きな意味があります。・ベランダに出る
・玄関先に出る
・窓を開けて風を感じるこれだけでも十分です。自然の光や風は、自律神経のバランスを整える助けになります。
特に午前中に光を浴びると、生活リズムの安定にもつながります。「外に出なきゃ」と思うと負担になりますが、
「少し空気を吸うだけ」と考えると取り入れやすくなります。③冷たい飲み物や香りでリフレッシュ気分転換には、五感を使う方法も効果的です。例えば、
・冷たい水やお茶をゆっくり飲む
・ミント系のガムや飴を口にする
・好きな香りをかぐこうした刺激は、頭の中のモヤモヤから意識を少し外してくれます。特にミントのようなすっきりした香りは、
気分の切り替えを助けるきっかけになります。「できることを、できる形で」ここで大切なのは、
すべてをやろうとしないことです。深呼吸だけでもいいですし、
外の空気を吸うだけでも十分です。調子が悪い日は、
「やることを増やす」よりも「負担を減らす」ことが優先です。その中で、少しだけ楽になる行動を選べたら、それで十分です。［訪問看護の現場で感じること］精神科訪問看護の中でも、
「何もできない」と感じている方は多くいらっしゃいます。ですが実際には、
・呼吸を整えた
・外の空気を吸った
・少し水を飲んだこうした小さな行動が、回復のきっかけになっている場面をよく見かけます。大きな変化ではなくても、
小さな積み重ねが心と体を少しずつ整えていきます。［まとめ］気持ちが落ち込む日は、誰にでもあります。
そんなときに無理に元気になろうとすると、かえって疲れてしまいます。だからこそ、
・深呼吸
・短時間の外気浴
・冷たい飲み物や香りといった“ミントみたいな習慣”を取り入れてみてください。ほんの少しでも気分が軽くなれば、それは十分な変化です。自分のペースを大切にしながら、
「少し楽になる方法」をひとつ持っておくこと。それが、日々を乗り越える支えになります。精神科訪問看護として、これからも日常に役立つ関わりや工夫をお伝えしていきます。
では、またです！
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260506192004/</link>
<pubDate>Tue, 19 May 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
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<title>なぜ5月にメンタル不調が起きやすい？｜訪問看護　ミント　明石市</title>
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明石市にある精神科特化訪問看護ステーションミント
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260506182153/</link>
<pubDate>Thu, 07 May 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
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<title>生きている人にとっての死は何を表す？｜精神科訪問看護ミント</title>
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<![CDATA[
恐怖、境界、そして救いとしての死死とは何か。
この問いに、正解はありません。医学的には心肺停止かもしれないし、
哲学的には存在の消失かもしれないし、
宗教的には移行や帰還かもしれない。でも、生きている私たちにとっての「死」は、
単なる現象ではなく、もっと心理的で、象徴的で、個人的なものです。では、死は私たちにとって何を表しているのでしょうか。1.死は「最大の恐怖」を表しているまず一つは、やはり恐怖です。死は、未知です。
誰も完全には経験を語れない。
だから怖い。それは「痛そう」「苦しそう」という身体的な怖さだけではなく、
自分が自分でなくなることへの根源的な不安でもあります。明日も自分が続いている前提で、人は日常を営んでいます。
でも死は、その“当然”を断ち切る。だから人は、死を前にすると、自分の無力さを知ります。それも計り知れない無力さ精神科の領域でも、
死の不安は直接「死が怖い」として現れるとは限りません。
不眠、不安、パニック、強迫、執着、過活動――
さまざまな形で、
“失われること”への恐れがにじむことがあります。つまり死とは、単に命の終わりではなく、
人間の不安の核に触れるテーマでもあるといえるのではないでしょうか。2.死は「生の境界線」を表している一方で、死は恐怖であると同時に、
生を区切る境界線でもあります。終わりがあるから、人生には形が生まれる。
終わりがあるから、今日という一日にも意味が出る。もし人生に終わりがなかったら、
何をしても“今である必要”がなくなります。
でも私たちは有限だから、
今しかできないこと、今しか言えないこと、今しか会えない人がいる。死は残酷です。
でも、残酷だからこそ、生の濃度を上げる。それはまるで、白い紙に輪郭線を引くようなものです。
死があることで、生は「ただの連続」ではなく、
ひとつの作品のようなまとまりを持つのかもしれません。3.死はときに「救い」を表してしまうことがあるこれは精神科訪問看護の文脈では、とても慎重に扱うべき話です。
けれど避けて通れないテーマでもあります。苦しみが長く続いた人にとって、
死は恐怖ではなく、
“終われること”としての救いに見えることがあります。もう頑張らなくていい。
もう苦しまなくていい。
もう説明しなくていい。
もう朝が来なくていい。そう感じることがある。大切なのは、
「死にたい」という言葉の是非をすぐに裁くことではなく、
その奥にある
“「何」から終わりたいのか”
を一緒に見つめることだと思います。死にたいのではなく、
この苦しさを終わらせたい。
この孤独を終わらせたい。
この自己否定を終わらせたい。
この疲労を終わらせたい。そう考えると、
本当に必要なのは「命を終わらせること」ではなく、
苦しみの構造を終わらせることだと理解できます。4.死は「どう生きるか」を問い続ける存在でもある結局のところ、死は単なる終点ではありません。
死は、今を生きる私たちに対して、静かに問いを投げかけています。本当にこのままでいいのか。
誰の人生を生きているのか。
何を大切にしたいのか。
もし時間が限られているとしたら、何を手放すのか。この問いは、時に厳しいです。
でも、とても誠実です。死を見ないようにしていると、
人は流されて生きやすくなります。
でも死を意識すると、
少しだけ自分の人生に責任を持つようになる。それは重荷ではなく、
自分の人生を“自分のもの”として引き受ける感覚に近い気がします。最後に生きている人間にとって、死とは何か。
それは、恐怖であり、境界であり、ときに救いであり、
そして何より
「どう生きるか」を問い続ける存在なのだと思います。死は、できれば遠ざけたいものです。
でも、死を見ないままでは、
生もまたぼんやりしてしまう。だからこそ、ときどき立ち止まって考えてみる。
自分にとって、生きるとは何か。
終わりがあるからこそ、何を大切にしたいのか。その問いを持つこと自体が、
もうすでに「よりよく生きようとすること」なのかもしれません。では、またです！
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260401155825/</link>
<pubDate>Thu, 30 Apr 2026 17:07:00 +0900</pubDate>
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<title>「死を受け入れれば、大抵の悩みは消える」は本当か｜精神科訪問看護ミント</title>
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<![CDATA[
極端だけど、本質を突いている話「どうせ人は死ぬ」こう言うと、冷たい人だと思われることがあります。
あるいは、達観ぶっているとか、投げやりだとか。
でも私は、この言葉には乱暴さと同時に、かなり本質的な力があると思っています。なぜなら、人が抱える悩みの多くは、
“永遠に続く前提”で考えすぎることから生まれているからです。私たちは「終わりがある」ことを忘れて悩みすぎるたとえば、人間関係。
嫌われたくない、評価を落としたくない、変に思われたくない。
だから無理をして、言いたいことを飲み込み、疲れてしまう。でも少し極端に言えば、
その相手も自分も、いずれ死にます。もちろん「だから人にどう思われてもいい」と言いたいわけではありません。
ただ、死という絶対的な事実の前では、多くの悩みは“相対化”されるのです。職場の評価、SNSの反応、見栄、比較、世間体。
それらは生きている間は大きく見えるけれど、
人生全体のスケールで見れば、驚くほど小さいこともある。この視点を持てると、人は少し自由になりませんか？「悩みが消える」のではなく、「悩みのサイズが変わる」ここで大事なのは、
死を受け入れたからといって、悩みがゼロになるわけではないということです。お金の問題はあるし、病気もあるし、孤独もある。
現実は哲学だけで片づきません。でも、死を意識すると、
それまで巨大に見えていた悩みが、
“抱えられる大きさ”に変わることがあります。たとえば、
「失敗したらどうしよう」ではなく、
「どうせ一度きりの人生なら、やってみるか」
に変わる。「この人に嫌われたら終わり」ではなく、
「本当に大事な関係だけ残ればいいか」
に変わる。「完璧でいなければ」ではなく、
「どうせ最後はみんな不完全なまま終わる」
に変わる。この変化は小さく見えて、実はこの先生きる上でかなり大きいです。精神科の現場で見える「生きづらさ」の正体精神科訪問看護をしていると、
生きづらさの背景には、しばしば
“ちゃんと生きなければならない”という過剰な緊張があると感じます。ちゃんと働かなければ。
ちゃんと人付き合いしなければ。
ちゃんと回復しなければ。
ちゃんと前向きにならなければ。でも、人はそんなに「ちゃんと」できる生き物ではありません。むしろ、人間はかなり脆くて、揺れて、矛盾していて、面倒くさい。
それが普通です。それなのに、自分にだけ「ちゃんと」を強いてしまう。
そして苦しくなる。そんなとき、死の視点はある意味で救いになります。
なぜなら、
死はすべての人を平等に“不完全な存在”として終わらせるからです。完璧な人生を終える人なんて、たぶんいません。
みんな何かを残し、何かを諦め、何かを間違えたまま終わる。
その前提に立つと、
「今の自分がこんなに不完全でも、まあ人間としては普通か」
と思えることがあります。死を受け入れるとは、「諦める」ことではないここも誤解されやすいところです。
死を受け入れるというと、
「どうせ死ぬんだから何しても同じ」
という虚無に見えることがあります。でも本来それは逆で、
終わりがあるからこそ、今を丁寧に扱うという姿勢です。たとえば、
いつか終わる関係だからこそ、大切にしたい。
限りある体だからこそ、休ませたい。
永遠じゃない時間だからこそ、会いたい人に会いたい。これは諦めではなく、むしろ人生への深い肯定です。「どうせ終わる」から雑にするのではなく、
「どうせ終わる」からこそ愛おしい。
この感覚は、年齢や病気や喪失を経験する中で、少しずつ身についていくものかもしれません。最後に「死を受け入れれば、大抵の悩みは消える」この言葉は、正確には少し違うのかもしれません。
本当は、
死を受け入れると、悩みに飲み込まれにくくなる
のだと思います。悩みはなくならない。
でも、悩みだけが人生の中心ではなくなる。そしてそのとき、人は少しだけ呼吸しやすくなります。死を思うことは、
人生を投げることではなく、
人生を必要以上に重くしすぎないための知恵なのかもしれません。

では、またです！
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260401153149/</link>
<pubDate>Mon, 20 Apr 2026 18:00:00 +0900</pubDate>
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<title>死を考えることは、案外「ちゃんと生きる」ことかもしれない｜精神科訪問看護ミント</title>
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<![CDATA[
「死について考えるなんて、縁起でもない」<brdata-start="386"data-end="389">そんなふうに言われることがあります。たしかに、多くの人にとって「死」は、できれば見ないで済ませたいものです。<brdata-start="445"data-end="448">怖いし、重いし、答えもない<brdata-start="462"data-end="465">だから忙しさや日常の中に、うまく押し込めて生きている。でも、精神科訪問看護の現場でいろいろな人と出会ってきて、私は逆のことを思うようになりました。<brdata-start="540"data-end="543">死を考えることは、むしろ「生きること」を取り戻す行為なのではないか、と。人は「死」を遠ざけるほど、生きづらくなることがある私たちは、死を「人生の終わり」としてだけ捉えがちです。<brdata-start="642"data-end="645">けれど本当は、死は“最後に一度だけ来る出来事”というより、<brdata-start="674"data-end="677">今この瞬間の生き方を照らし出す鏡のようなものかもしれません。もし自分が永遠に死なない存在だったら、<brdata-start="732"data-end="735">今日やることも、今会いたい人も、今伝えたい言葉も、<brdata-start="760"data-end="763">たぶん全部「また今度」で済ませてしまうはずです。でも人間には限りがある。<brdata-start="801"data-end="804">時間にも、体力にも、関係にも、命にも終わりがある。<brdata-start="829"data-end="832">だからこそ、今この瞬間に意味が生まれる。つまり、死があるから生は輪郭を持つのです。「生きる意味がわからない」という苦しさの背景精神科の現場では、「生きている意味がわからない」という言葉に出会うことがあります。<brdata-start="949"data-end="952">この言葉は、単なる悲観ではなく、むしろとても真面目な問いです。人は、苦しみが続いたとき、<brdata-start="998"data-end="1001">「何のために頑張るのか」<brdata-start="1013"data-end="1016">「この先に何があるのか」<brdata-start="1028"data-end="1031">「こんな思いをしてまで生きる意味があるのか」<brdata-start="1053"data-end="1056">と考えます。そのとき必要なのは、「そんなこと考えないで」と押し戻すことではなく、<brdata-start="1098"data-end="1101">その問いを一緒に持つことなのだと思います。そして不思議なことに、<brdata-start="1139"data-end="1142">「死にたい」「消えたい」と言う人の言葉の奥には、<brdata-start="1166"data-end="1169">実は「本当はちゃんと生きたかった」という痛みが隠れていることが少なくありません。死を思う人は、案外、生に対して誠実です。<brdata-start="1231"data-end="1234">どうでもよくなったのではなく、<brdata-start="1249"data-end="1252">どうでもよくできないほど苦しかっただけかもしれない。だからこそ、死を考えることをタブーにせず、<brdata-start="1305"data-end="1308">そこにある「本当はどう生きたかったのか」という声を丁寧に拾うことが大切なのだと思います。死を見つめると、日常の優先順位が変わる死を意識すると、見えるものが変わります。・嫌われないために無理していたこと<brdata-start="1417"data-end="1420">・本当は会わなくていい人に気を遣っていたこと<brdata-start="1442"data-end="1445">・世間体のためだけに抱えていた悩み<brdata-start="1462"data-end="1465">・「こうあるべき」に縛られていた生き方こうしたものが、少しずつ剥がれていきます。「どうせいつか死ぬのに、これは本当にそんなに大事か？」<brdata-start="1536"data-end="1539">この問いは、乱暴に見えて、実はとても本質的です。もちろん、仕事も責任も現実もあります。<brdata-start="1584"data-end="1587">でも、その中でさえ、<brdata-start="1597"data-end="1600">“自分にとって本当に大切なもの”を選び直す力を、死の意識は与えてくれます。死を考えることは、希望を捨てることではないここで誤解してほしくないのは、<brdata-start="1684"data-end="1687">死を考えることは、いつもいつも絶望することと等しくはないということです。むしろ逆です。<brdata-start="1726"data-end="1729">死を避け続けると、生はぼんやりとしたものになりやすい。<brdata-start="1756"data-end="1759">でも、死を見つめると、生は急に具体的になります。今日のご飯がおいしいこと。<brdata-start="1798"data-end="1801">好きな人の声。<brdata-start="1808"data-end="1811">天気のいい日の光。<brdata-start="1820"data-end="1823">何気ない会話。<brdata-start="1830"data-end="1833">眠れる夜。<brdata-start="1838"data-end="1841">「またね」と言えること。そんな当たり前が、当たり前ではないとわかる。人は、死を知ることで、<brdata-start="1890"data-end="1893">ようやく生の細部を感じられるのかもしれません。最後に死を考えること<brdata-start="1947"data-end="1950">それは、人生に陰を落とす行為ではなく、<brdata-start="1969"data-end="1972">時に人生に輪郭を与える行為です。精神科訪問看護の仕事を通して思うのは、<brdata-start="2011"data-end="2014">人は「強いから生きられる」のではなく、<brdata-start="2033"data-end="2036">有限であることを引き受けながら、それでも今日を過ごしているということです。死を考えることは、<brdata-start="2088"data-end="2091">今日を雑に生きないための、小さな覚悟なのかもしれません。

では、またです！
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260401152240/</link>
<pubDate>Mon, 13 Apr 2026 16:30:00 +0900</pubDate>
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<title>４月１日新しい始まりがしんどい人へ｜精神科訪問看護師として春に思うこと</title>
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<![CDATA[
精神科訪問看護師として春に思うこと4月1日になると、街の空気が少し変わります。新しいスーツ。
新しい名札。
新しい部署。
新しい学校。
新しい人間関係。
そして、新しい「自分にならなければいけないような空気」。春は、世の中的には「始まりの季節」です。
前向きで、希望があって、まっさらで、清々しい。
そんなイメージがあふれています。でも実際には、この季節がしんどい人も少なくありません。むしろ、精神科訪問看護の現場にいると、
春という季節は、案外やさしくないなと思うことがあります。「始まり」は、希望であると同時にプレッシャーでもある新年度、新生活、新しい環境。
それ自体は悪いことではありません。
むしろ、何かを変えるきっかけになることもあります。ただ、「始まり」には独特の圧があります。ちゃんとしなきゃ。
うまくやらなきゃ。
今度こそ変わらなきゃ。
新しい場所では失敗しちゃいけない。
去年の自分のままじゃダメな気がする。4月になると、こういう“見えない命令”が一気に増えます。そして、それにうまく乗れないと、
自分だけが置いていかれているような気持ちになる。でも、本当はそんなことはありません。人は、カレンダーが変わっただけでは急に変われない4月1日は、社会にとっては区切りの日です。
でも、人の心や人生は、そんなにきれいに切り替わりません。昨日までしんどかった人が、今日から急に前向きになるわけではないし、
ずっと抱えてきた不安や疲れや孤独が、年度替わりで消えるわけでもない。むしろ「新しいスタートを切らなければ」という空気が強いほど、
変われない自分を責めてしまうことがあります。でも、少し冷静に考えてみれば当たり前です。人は、機械ではありません。
季節が変わったからといって、
心まで一斉に春仕様になるわけではない。だからもし今日、
「4月なのに全然前向きじゃない」
「始まりの空気がしんどい」
「何も新しく始める気になれない」
そう感じていたとしても、それはおかしなことではありません。それは単に、
あなたの心がまだ冬の続きにいるというだけかもしれません。そしてそれは、何も悪いことではないと思うのです。春にしんどくなる人は、むしろ真面目な人が多い精神科の領域にいるとよく感じるのですが、
春にしんどくなりやすい人は、意外と「弱い人」ではありません。むしろ逆で、
ちゃんとしようとする人、空気を読もうとする人、期待に応えようとする人ほど、春に疲れやすい。新しい環境に適応しようとする。
周りに迷惑をかけないようにする。
失敗しないように気を張る。
明るく見せる。
頑張っているように見えるようにする。その全部が、少しずつ心を削っていきます。春は華やかに見えて、実はかなり神経を使う季節です。
だからこの時期に疲れるのは、ある意味では自然なことでもあります。始まりの日に必要なのは、「決意」より「余白」かもしれない本当に必要なのは
“余白”なのではないかと思うことがあります。新しい環境に慣れるための余白。
うまくできない自分を責めない余白。
疲れたら休んでいいと思える余白。
まだ何者にもなっていない自分を、そのまま置いておける余白。始まりの日に大切なのは、
「今日から変わるぞ」と強く握りしめることより、
「まだ整っていなくてもいい」と少し緩めておくことかもしれません。「今の自分のまま始めていい」ということ新年度になると、
つい「新しい自分」でスタートしなければいけないような気がしてしまいます。でも本当は、
新しい自分になってから始める必要なんてないのだと思います。不安があってもいい。
自信がなくてもいい。
去年の疲れを引きずっていてもいい。
ちゃんと前向きじゃなくてもいい。それでも、今日を迎えているなら、それで十分です。始まりというのは、
立派な決意表明をした人だけに訪れるものではなく、
しんどさや迷いを抱えたままでも、静かに訪れるものなのだと思います。そして本当の意味でのスタートは、
案外そういう“不完全な状態”から始まるのかもしれません。精神科訪問看護師として、春に思うこと精神科訪問看護の仕事をしていると、
「元気になってから動く」のではなく、
元気じゃないまま、なんとか日々をつないでいる人たちにたくさん出会います。朝起きるだけで精一杯の人。
外に出るだけで大仕事の人。
誰かと話すだけで消耗する人。
でも、それでも今日を生きている人。そういう姿を見ていると、
“始まり”というものの意味が、少し変わってきます。始まりとは、何か大きなことをする日ではなく、
今日をやめなかった日なのかもしれない。「新しいことを始める」より先に、
「今日をなんとか引き受けた」
そのこと自体が、すでに十分な一歩なのだと思います。大切なのは、
「ちゃんと始めること」ではなく、
自分のペースで人生の続きを歩けることなのだと思います。新しい年度の最初の日に、
勢いよく走り出せなくてもいい。それでも、今日という一日を迎えたこと自体が、
もう十分に「始まり」なのだと思います。

では、またです！
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260401151214/</link>
<pubDate>Wed, 01 Apr 2026 15:23:00 +0900</pubDate>
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<title>精神疾患とは何？そもそも論｜精神科特化訪問看護ミント</title>
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明石市にある精神科特化訪問看護ステーションミント
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<link>https://mint-st.jp/blog/detail/20260314122228/</link>
<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 09:00:00 +0900</pubDate>
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